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小倉駅前に着いたのが10時を少しまわっていた。
天神から路線バスだけで4時間、同じ区間を走る高速バスならその3分の1くらいで着いてしまうところである。つくづく馬鹿なことをやっているなと思ってしまう。ここでおおよそ別府までの中間点だと思うのだが、ここからは国道10号線を南下し行橋・中津を通って別府に向かう。
【左】 昔は小倉から中津までのロングラン運行などもあったようだ(2001年2月撮影)
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小倉駅前に降り立ったのも10年ぶりくらいだろうか。街の雰囲気が随分と変わったような気がする。小倉という街は僕が行橋の祖父のところに出かけたら必ず連れて行ってくれた街だった。小さいときは街といえば小倉だった。小倉駅前を走る無数のバスを見ては、「どこかへ行きたい」という気持ちを抱き、それが形を変えて旅へのこだわりにつながったのではないかと思う。
そのバスがどこへ行くのだろう?と…
【右】 今回の乗車ルート。いよいよ東進から南下へ向かう
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西鉄バスのおかげで地図と地理には困らなくなったといっても過言ではない。それだけ西鉄のバス路線が福岡県内を隈なく網の目のように走っているのである。
僕は中学卒業まで西鉄バスのお世話になった。
福岡の郊外に住んでいた頃、1時間に1本来るか来ないかのバスで中学校へ通い、福岡市内まで塾通い、行橋の祖父母のところへ出かける時も西鉄バスだった。その中でも印象に残っているのが下のカラーの西鉄バスである。
【左】 ちょうど中学の頃にデビューした福岡・北九州高速バスの塗装。今は普通の4列シートだが以前は短距離ながら3列シートで公衆電話つきと豪華な設備もあった(2003年7月頃撮影)
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15年位前、福岡市内・北九州市内には「市内急行」と呼ばれる系統が何本かあって、そのバスだけは普通のバスとは違ったカラー、ちょっと背もたれが高くてすわり心地がよく、そしてなんと言っても小さな停留所をビュンビュン通過して走っていく姿がひときわ目立ったものだ。
この「急行バス」には随分お世話になった。博多駅から早良区の原まで塾通いのとき、行橋に帰れば行橋から小倉までと。このバスは僕の福岡にいた頃の思い出がぎゅっと詰まっていたのである。
【右】 西鉄バスでももっとも好きなカラーこと急行色。エアサスで、座席も一般路線バスに比べて豪華だった。バブル華やかなりしころのあだ花か…(2002年7月頃撮影)
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しかしながら、その後急行バスはどういうわけか相次いで各駅停車へ衣替えし独特のカラーをまとった車体も数少なくなったという。
今回もそういう路線があればそこを通るのもありかなとも思ったが、残念ながら小倉から行橋へ向かうバスは全部各駅停車の普通のバスであった。ところが、小倉駅前で乗り換えた際東(門司)方から一台のバスが交差点で停まった。あの懐かしいバスである。その当時のバスかどうかは分からないが、15年前の自分がひょこりと降りてきそうな、そんな感じさえあった。
【左】 ふと見かけた急行カラーのバス。あの頃の自分が降りてきそうな…(2001年2月撮影)
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小倉から1時間20分、行橋に着いた。
中津行のバスは昼下がりの行橋を数人の客を乗せて発車した。その昔小倉→行橋→中津と直通運転をしており、長距離路線として知られていた10系統も行橋を境に分断されている。しかも行橋から南の中津までの路線は乗客の少ないことを理由に廃止寸前までいっていたという。西鉄バス全盛期、この国道10号線には特急・急行バスをはじめ多くの長距離バスが行き交いしていたものだがそれも今は昔の話である。
【右】 今回の乗車ルート。いよいよ福岡県を脱出する
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確かに椎田・八屋と国道を一歩離れると人家が少なく、かつ車の往来だけは多いというところだけにバスは時間通りには走らないのだろう。中津まで乗りとおしたのは僕一人であった。
【左】 昔懐かしい西鉄バスの乗り場。ここだけ昭和40年代の空気が(2001年2月撮影)
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乗換の際である。小倉からのバスが延着し、当初乗るはずだったバスが出て行ってしまい、次のバスまで30分ほど時間が出来てしまった。ふと駅のほうまで1kmほどの道をぶらぶらしてみてのことである。
実は行橋はふるさとといっても過言ではない思い出深いところである。今でも健在なのだが祖父母が住んでいたためよく出かけており、いつの頃か小さい頃の記憶は行橋しか思い当たらない。
【右】 中津行きのバス。その後マイクロバス(三菱ローザ)に変わり路線を維持していたが、2005年に廃止された。(2001年2月撮影)
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行橋という街は不思議なノスタルジーを感じる。もう高架されたが先代のJR行橋駅は年月を超えた重みがあったような気がする。駅前は車とバスでいつも渋滞、それもそのはず駅前から国道10号線までの500m程の道は片側1車線の対面通行でいつも路上駐車する車とそこを走るバスでごった返していた。商店街が駅前の通りを中心に広がり、スーパーもまだ「マルショク」と「寿屋」、あと「相互」という小さなスーパーがあったような記憶があり、なんとなくいい感じの下町然していたような気がする。
【左】 1986年正月に撮影したと思われる行橋駅。北九州に初めて鉄道が走り始めた頃からの建物だったらしく、ところどころにレトロを感じさせた。2000年頃に高架化され、今では見ることができない。(1986年正月頃撮影)
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国道10号線の交差点から行橋駅へ向かう道との交差点に立って、駅の方向を見渡した。商店街の店がほんの少し元気がなさそうに見えたが、小さいときとほとんど変わっていなかった。
「まぁ、そんなにしゃかりきにになって急ぐなよ」とでも言いたげな顔で行橋の街は僕を何年かぶりに迎えてくれた。涙が出そうになった。何でだろう。だがこれだけは分かった。まだ僕には帰るところがあるってことを…
【右】 現在の行橋駅。アーチ状の庇がついているが、少し寒々しくなった。ここ数年の急速な過疎が立派な駅を余計に浮き立たせているような気がする(2002年1月撮影)
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バスは私を含めて数人のお客を乗せて大分県境にさしかかった。すでに国道10号線から離れ街の中の細い道を走っていく。別段大分県に入ったからといって急に景色が変わるでもなく行橋と同様駅周辺は古い商店がひしめきあった街である。
【左】 今回の乗車ルート、中津から国道10号線を別府方面にストレートに走るバスがないので、安心院経由となった
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中津といえば「福沢諭吉のふるさと」ということで有名だが、昔1万円札に福沢諭吉が採用されたのを機に「中津大博覧会」という、小さい私でも「なんじゃこりゃ?」と言ってしまった今にして思えばトホホな催しが開かれていた。残念ながら福沢諭吉は大阪生まれで、小さいときに中津にやってきて青年期を過ごしたのが正しい。
【右】 中津駅の東口。西鉄中津から撮影。西鉄バスも2005年に分離子会社を含めてすべての路線バスが撤退した(2001年2月撮影)
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西鉄バスで中津の停留所に降りたものの、大分交通のバス停が見当たらない。近くにいる人に尋ねると、駅の反対側にあるとのこと。乗換の時間が5分しかないため慌てて駅ビルの中を走った。
で、慌ててバスに飛び乗ったのだがバスはこれまで乗ってきた西鉄バスと違いローカル色の濃いバスであった。運転士氏はよほど余所者が珍しいのかいろいろと話しかけてきた。
朝からバスを乗り継いで別府まで行くんですと多分信じてもらえないようなことを話したところ、案の定呆れた口調で「物好きだねぇ」と一言。道中この話好きな運転士氏の話に付き合うこととなった。
【左】 安心院行きの高田観光バス。大分交通の分離子会社で、中津・高田地方を走る。カラーは大分交通と殆ど変わらないが(2001年2月撮影)
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中津駅前のロータリーから再び国道10号線に入り、宇佐市に入る。途中ポツリポツリと人が乗ってきては運転士氏と一言二言あいさつをする。「今日も病院かい?」「今日は暖かいねぇ」もうこの状況が日常なのだろう。大阪のバスではまず考えられない。それにしてもいい光景だ。そういう光景にホッとしたのか、バスの中に注ぐ陽の光に誘われてついうとうとと。意識が四日市(宇佐市の中心街)あたりまではあったものの気がつくと山の中を走っており安心院が近いことを示していた。
【右】 このタバコ屋味がありますよね。現役で営業していました(2001年2月撮影)
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「安心院」とかいて「あじむ」と読める人は、地元の人以外ではまずいないと思われる。(私も数年前までそうだった)
別府の北西の山ひとつ越えた盆地に位置し、地理的には宇佐郡ということで別府からはかなり遠く感じられる。しかし別府の観光地としての喧騒を考えると、この安心院という街の静けさは驚くほどである。
【左】 最後のバスの乗車ルート。ちなみに亀の井バスが別府市内を越えて安心院に来るのは1日3往復のみ
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中津または四日市(宇佐)から大分交通バスに乗ると安心院の中心街の待合所で降ろされる。待合所の建物のちょっと昔を感じさせる造りと、建物の割に少ないバスの本数のギャップにちょっと前の「昔」を感じることができる。
安心院に来たなら街をぶらっと歩くといいよ、と乗ってきたバスの運転士さんに云われるまま安心院の街を歩くことにする。
安心院の名物?といえば何といっても「鏝絵(こてえ)」である。一番上の写真にあるように、このあたりの古い民家には屋根に近い部分の壁をきれいに絵や模様で飾ってるものが多い。
【右】 民家の軒先においている鏝絵。とても家の付属品に見えない(2001年2月撮影)
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「鏝絵ウォーク」ということでいたるところに看板があって順路に従って歩いていくとあちこちに「鏝絵」見ることができる。多くが江戸時代から明治初期にかけて作られたものばかりで、見た目にもそして周りののどかな田園風景ともあいまってさながら野外美術館の態を成しているようである。
鏝絵ばかりに見とれていて目線の風景を見落としがちだが、目線の街並みものどかでゆっくりしている。そんなに大きな街ではないので、集落を一歩離れると見事な田園風景が広がる。
【左】 これが鏝絵(2001年2月撮影)
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安心院をぶらりと歩いた後、最後のバスに乗り込むべく安心院の市街地に戻ってきた。少し時間は早かったものの別府から来た亀の井バスは転回場で一休みしていた。まだドアは開いていなかったので、バス停で腰をかけて待っていると、「バスに乗るのなら、寒いから中に入って待っていなさい」とバスの中に入れてくれた。一日3往復しかないバスだからかどうか分からないが、ありがたくバスの中で暖をとることにした。陽はだいぶん傾いている、バスは私一人を乗せてゆっくりと発車した。
【右】 亀の井バスの安心院停留所。一日3回しかバスが来ないのに立派な転回場がある(2001年2月撮影)
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安心院から別府まではさほど距離はないのだが、所要時間はゆうに1時間半ほどである。それもそのはず安心院と別府を結ぶ国道500号線を通ればすぐのところを脇の集落にこまめに入っていきそのうちのいくつかの停留所で人を乗せては停まっていった。しかも走るスピードは至ってゆっくりである。このリズムが心地よかったのか少しだけうとうととまどろみはじめ、気が付くと山の中からぱっと開けた草原が広がるところへと出た。
【左】 安心院から山を越えるとふと視界が広がり、日本離れした草原が広がる(2005年5月撮影)
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アフリカンサファリという園内を放し飼い?の動物が歩き回る動物園に出てきたが、冬場訪れるひとが居ないのか、家族連れを一組乗せただけで発車してしまった。
アフリカンサファリを出ると大分自動車道と併走しながら別府市内に入る。かなりの高台らしく遠くに別府市街が一望でき景色はよい。途中「立命館アジア太平洋大学」という新しい大学に一旦立ち寄り明礬温泉の湯の花小屋を見ながら徐々に下って行く。これまでは10号線、もしくはJRでしか別府入りしたことがなかったので、この景色を楽しみながら街に入るのは非常に新鮮であった。
【右】 アフリカンサファリ前の道。昔はかつて観光客がどっと押し寄せていたそうだが…(2005年5月撮影)
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「本坊主(=坊主地獄)」停留所で別府の街に入ったあたりからローカル路線から急に街のバスへと変貌する。鉄輪からはそれに観光客が加わり車内はずっと賑やかとなった。そして今日の最終目的地である別府ユースの最寄の停留所(安心院からのバスでの話だが)「霊泉寺」は次だというアナウンスが車内に響いた。降車ボタンを押し、バスは坂道の途中にある停留所に停まった。降りたのは私一人である。時計は5時半を少しまわっていた、天神から約11時間半かかったことになる。
この喧騒の中で、ただ一人私は天神からバスで乗り継いでこのバスに乗っているんですよといっても多くの人はまず気づかないだろう。バスの旅は日常と非日常の狭間に自分を陥れ弄ぶ、手ごろに遊べる「パラレルワールド」なのである。
【この稿 了】
【左】 別府ユースホステル(当時)の最寄停留所だった霊泉寺停留所。遠くに見えるのが、かの有名なスギノイパレスである(2001年2月撮影)
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